初音ミクという名前を聞いたことがないという人は、今はもういないだろう。念の為、起源として正確な詳細を載せておく。

初音ミク(はつね ミク、Hatsune Miku)は、クリプトン・フューチャー・メディアから発売されている音声合成・デスクトップミュージック(DTM)用のボーカル音源、およびそのキャラクターである。

また、『初音ミク』というキャラクターについても、その権利は開発元であるクリプトン・フューチャー・メディアが有している。クリエイターが初音ミクを用いた二次創作を行えるよう、同社はpiapro(ピアプロ)を通じて、ピアプロ・キャラクター・ライセンスなどの仕組みを整備している。

噛み砕いて説明すると、『初音ミク』には歌声を作るためのソフトウェアとしての側面と、キャラクターとしての側面がある。そのソフトウェアやキャラクターを管理しているのがクリプトン・フューチャー・メディアで、piaproでは初音ミクを使った創作のためのライセンスやガイドラインを整備している。

一方で、初音ミクを使用して制作された楽曲やイラストは、それぞれのクリエイターによって作られた作品ということである。

初音ミクの発売後、超々有名曲のカバーがアップロードされ、それからボーカロイドオリジナル曲と呼ばれる作品群がニコニコ動画にアップロードされるようになり、それからすぐにニコニコ動画およびボーカロイドのブームが到来した。

クリエイターはpiaproを通じて、視聴者はニコニコ動画を通じて、色々なユーザーが初音ミクに夢中になったのである。

この時に見ていた初音ミクは、今の時代でいうVtuberに似たような性質を持っていたように思う。多種多様な初音ミクがいるという意味ではなく、ヴァーチャル上のアイドルという意味である。

初音ミクというアイドルがひとり存在していて、様々な人間の心象を歌として各々に届けてくれる。そんなアイドルとして君臨していた。

また、そんなボーカロイド界隈の賑わいを後押しするように後続である『鏡音リン・レン』、『巡音ルカ』、『Megpoid(GUMI)』が発売され、時代はネット上においてボーカロイドを見ないことはまずありえない状況にあった。

※GUMIはクリプトン製ではなく、株式会社インターネットから発売された『Megpoid』のキャラクターである。

オリジナル曲を制作するクリエイターのことを『P(プロデューサー)』と呼ぶようになり、投稿される楽曲の完成度も日に日に増した。

ここまではひとまず、2007年から2014年頃までの話としよう。

余談だが、『巡音ルカ』の声の元となっているのは『浅川悠』であり、この人は我らが『真剣で私に恋しなさい!』でおなじみ『川神百代』の声優である。

時代は移り変わっていった。俺が気がつくより前に、きっとゆっくりと時代は変わったのだろう。

初音ミクは、本来の意味である多様性を持った。

様々なPが楽曲を投稿するうちに、有名Pになればなるほどその人の初音ミクが尊重されるようになり、再生されることもない底辺の楽曲を歌う初音ミクは大衆に見向きもされなくなっていった。そのうちに初音ミクは一部のP達が実質的に独占するようになり、「○○Pのミクちゃんは~」といった発言をしばしば目にするようになった。

それからたまに彗星のごとく現れる天才が初音ミクを操るようになり、また、そういった天才はすぐにその才能を音楽業界へ引き抜かれて埋もれていった。

キャラクターとして、また一時代を築いたオタク達の共通アイドルとしての『初音ミク』は形骸化したのである。

少なくとも俺には、そう見えた。

ボーカロイドは、従来より手軽なインディーズミュージシャンのメジャーへ挑戦するための道具として使われることが多くなった。また、それを良しとする人間、それを悪しとする人間が現れ、『初音ミク』およびボーカロイドは真っ二つに割れたと言っても過言ではないだろう。

これも簡単に言ってしまえば、過去にしがみつくおじさんと新しいものを楽しむ若者の対立だ。

キャラクターとしての『初音ミク』をあくまで昔のままそこに存在させたい、けれど『初音ミク』がクリエイターの踏み台にされることは許せないという相反する意見を持った拗れた人間たちが出来上がった。

これが今の現状だ。

ちなみに俺は『初音ミク』というものを語る際に、ソフトウェアとしてか、キャラクターとしてかをしっかり区別するタイプなので上記のタイプではないと断言しておきたい。

長々と語ったが、本題はここからなのである。

現在、ボーカロイド曲を「ボーカロイドだから」という理由だけで純粋に聴いている人は、昔ほど多くないのではないかと思う。

まだボーカロイド、初音ミクというコンテンツに触れてすぐの人はその限りではないはずだが、長くこのコンテンツに浸かっている人間ほど、ただ「ボーカロイド曲だから」という理由だけで楽曲を聴くことは少なくなっているように思う。

自分では『初音ミク』や『ボーカロイド』が好きだから聴いているつもりでも、実際には特定のクリエイターの作風や曲調、その楽曲そのものに惹かれていることも多いのではないだろうか。

自分の好きな楽曲は、もはやボーカロイドである必要がないのだ。なぜならば、そこにキャラクターとしての『初音ミク』が介在していないからである。ただちょうど自分が好きな曲が『ボーカロイド』を使用して作成されているだけであり、動画自体は歌詞やエモーショナルな風景の画像やPV風の映像が流れているだけの『歌声合成ソフトウェアの成果』だ。

興味がある人はYouTubeで簡単に『初音ミク』と調べて新着の動画を見てみるといいだろう。少なくとも俺が新着を眺めていた限りでは、キャラクターとしての『初音ミク』を使用している作品は数える程度しかなかった。

もちろん、楽曲によっては雰囲気重視のためにそうしなければならないこともあるだろう。だがしかし、俺が見ていた範囲では、もはやそんな割合ではなかったのである。

それなのに、その曲を、そのクリエイターを好きでいることと、『初音ミク』および『ボーカロイド』そのものが好きであることを、同じものとして扱っている人は多いように思う。

例えば、初音ミクが歌っているある曲を好きになったとして、その歌声が初音ミクではなくても、同じクリエイターが同じ曲調、同じ世界観で作った作品ならば変わらず好き、もしくはもっと好きだという人も少なくないと思う。しかしそれは、その人が惹かれているものは本当に『初音ミク』なのだろうか。

音声として『初音ミクが歌う声が好き』という人もいるだろう。それも確かにキャラクターとしての『初音ミク』を保つためのアイデンティティといえるかもしれない。

だが、主張としてはあまりにも弱いのである。なぜなら、その声は『藤田咲』のものであるからだ。

さて、こうなると本題が見えてくる。

『初音ミクとは一体何か?』

『初音ミク』とは時代と共に移りゆく概念である。

それぞれの胸の中に色んな形の『初音ミク』があり、それはあくまで自分の中にだけ留めておくべきクオリアで、他者へ伝えるべきではない『赤』である。

『初音ミク』の歌う楽曲は『初音ミク』の曲ではなく、クリエイターの曲であり、描かれた『初音ミク』はあくまでその絵師の中にある『初音ミク』である。

これらの制作物に対し、俺たちは難しい言葉を出すべきではないのだ。ただ『いいね』、『素晴らしい』、『可愛い』などの言葉だけが必要とされる。

楽曲を褒めちぎったり、他者と共有するのはとても偉い。だが、それを『初音ミクそのもの』への評価とするべきではなく、あくまで製作者の表現に対して敬意を表すべきだ。

なぜなら、『初音ミク』とはもはや存在しておらず、お互いの中にいる『初音ミク』は『赤』であり、『青』であるからだ。

以上を持って、今回の記事を終了とする。かなり深い議題なので長く読みづらい文章になってしまったかもしれないが、最後まで読んでくれた読者に感謝の意を述べ、締めくくりの言葉とする。